2009年11月 4日 (水)

FMラジオに出演しました

去る10月11日(日)にStyle FMラジオ(福岡市早良区百道浜)の要請により、陸軍墓地修復改良保存委員会の古川理事と共に、『日本再発見』のテーマで特別番組「福岡城と陸軍」に出演しました。
内容は福岡陸軍墓地についての由来より始まって、今回の地震災害の復旧改良の経過と、ここに眠られる英霊が福岡聯隊各部隊の所属であった事と戦歴等とを、生放送で10時から12時30分まで、小菅コメンテーターの設問に応じて詳しく語った。 後半では我が国の軍隊は天皇の軍隊(皇軍)であり、軍人勅諭に示される通り真心を持って規律正しく、恥を知る武士道を基本にして居り、これは拉孟守備隊の全滅にも見られる通り、一兵卒まで徹底していた事を話し、締めくくりとして小菅コメンテーターが陸軍墓地の大東亜戦争碑文を読み上げ終了した。
番組途中でも感動されての反応のメールやFAXが届いていました。
以下 番組内での主な内容です。
 ①福岡西方沖地震が谷にある陸軍墓地の与えた影響と修復
 ②墓地に眠られる英霊の声
 ③奉仕出来た実感と今後
 ④NPOに切り替えて
 ⑤この陸軍墓地と福岡城とは
 ⑥福岡城にて編成された陸軍
 ⑦九州男子の福岡各聯隊部隊は
 ⑧壮烈 拉孟守備隊の例  他
 ⑨旧軍の全滅の思想、武士道
 ⑩最後に思う事を

                  以上

2009年5月 8日 (金)

陸軍特攻南九州三基地慰霊祭についての報告

1.都城特攻慰霊祭

ここは毎年4月6日(沖縄戦開始し第1陣特攻出撃を記念して)11時(前年迄は10時)から都城市都島町の陸軍墓地の特攻慰霊碑前で、都城市長が奉賛会長となって行われる。今年も約500名近くの遺族・戦友・市民等が集まって盛大に行われた。
ここからの出撃は精鋭の4式戦闘機飛燕で行われ、11隊の隊長はすべて57期生(地上兵科の陸士から航空兵操縦に転科した者も多く、顔馴染みである)であり感慨は深い。
地元都城市在住の元ジェット戦闘機名パイロットで、居合道10段の伊黒忠義君(57期航士)が少飛会の人々や市の職員と共に御世話役として頑張って居ります。

2.万世特攻慰霊祭

ここは元加世田市(現南さつま市)に終戦の年にやっとの事で出来上がった、いわば隠密飛行場的存在であり1式戦(隼)も出動したが、海岸近く砂地なので滑走路も弱かったらしく、脚の丈夫な(固定脚)軍偵や97戦が多かった様で、出撃回数機数も他に比して少ない。ここからは57期生は3人が出撃戦死されている。
碑や記念館は立派であり、今年は米軍の写した当飛行場の写真も発表されて感慨深く、約450人位の方が参加された。ここは毎年4月の第2日曜日(今年は12日)に行われる。
会員の地元の婦人の方々が中食に名物のうどん・そばを提供して下さるのは有難い。
鹿児島中央駅からは10時に無料バスが出発し、帰りも終了後送って下さるので便利である。ここも市長が奉賛会長であり盛大に実行される。

3.知覧特攻慰霊祭

ここは今や全国的に有名であり、記念館も整い、機数も増えた。毎年知覧町(現南九州市)をあげて顕彰会として主宰されて居る。今年も約1,000名以上の全国からの参加者があり盛大であった。
毎年5月3日と決まって居り、最初は少年飛行兵の少飛会が主体で実行されていたが、30年位前から隊長期である57期は「相済まない事」と全国から参加して慰霊に加わった。昭和57年に57期で因んで植えた桜(57期生会、代表平野静夫君、菅原道之の3本)も大分大きく育って居る。勇士1,036人に因んでそれぞれが献灯した石灯ろうも更に増えている。
式典には57期生・全国偕行会を代表して57期の堀之北君が「慰霊のことば」を捧げて、その胸をうつ内容に居並ぶ者ひとしく感銘を深くした。内容は後に掲上します。
ここは鹿児島中央駅から9時・11時の2回現地へバスを、終了後は三角兵舎経由と直行中央駅行、指宿駅行とを出していただいている。
我々は当時の丘にあった三角兵舎跡地に行き、当時の女学生だった方々に湯茶菓子の接待を受け乍ら昔を偲んだ。緑の木立の中で心を清められて、当時を偲び英霊を弔って帰途についた。

    慰霊の言葉 (堀之北君による) 
 風薫り、新緑萌える、今日この日に、第55回知覧特攻基地戦没者慰霊祭が行われるに当り、財団法人偕行社、並びに、陸軍士官学校第57期同期生会を代表し、知覧特攻平和観音堂に祭られる、1,036柱の英霊の御前に、謹んで感謝慰霊の言葉を捧げます。
 今から68年前、自存自衛の為に始まった大東亜戦争に、国は総力をあげ、必勝を期しましたが、物量を誇る米軍に圧倒され、開戦3年3ヶ月目の昭和20年3月、米軍は沖縄に上陸しました。これを迎え撃つ陸軍の第32軍等を支援し、沖縄周辺海域の米軍艦艇を撃破するため、特攻攻撃がはじまり、ここ知覧からも、純真で、才能豊かな、若い特攻隊員の諸兄が出撃され、玉砕されました。一緒に肩を並べて学び戦った戦友が、「九段で会おう」と別れの言葉を残して出撃されたことを、今もはっきりと憶えており、燦々と輝く勲功とともに忘れることはありません。
 戦後もあれから64年、世界の各地でおきた戦争は百回を数えますが、日本はこれと関係なく、平和が続きました。あの原子爆弾など空襲により、ダメージを受けた産業は驚異的に復興し、焼野原となった都市はモダンな大都市に生まれ変わり、貧しかった生活は豊かな生活に様変わりし、多くの人が進歩した技術社会の中で、この豊かな生活に満足しています。
 この平和と繁栄は、世界に誇れる日本の誇りです。将来にわたり、末永く維持し発展させねばなりません。そしてこの平和と繁栄が、隊員諸兄を始め、全国310万の戦争犠牲者を礎として出来たものであることを忘れてはなりません。全国民とともに敬仰追悼し、深く感謝の誠を捧げます。
 一方においては戦後教育という名で日本人の精神弱体化が進められ、倫理意識が破壊されました。今日人をごまかす経済行為が頻発して、道義は退廃し、家庭や学級は崩壊し、凶悪犯罪は蔓延するなどして、安全安心が脅かされる状態となり、道徳と教育の改革が叫ばれています。
 ところで、隊員諸兄は、国の為、愛する者の命を守るため、死を恐れず、優勢な敵をめがけて突っ込まれました。その勇気に感謝し、その強烈な個性に多くの人が畏敬の念をおこしました。これは隊員諸兄の一人ひとりの魂の高貴さの仕業でした。友のために死ぬ、これより大きな愛はない。人が人のために死ねるのは人が魂の高貴さを持っているからだと知りました。
 隊員諸兄が、この崇高な美学を身につけられたのは、20歳前後、しかも特攻隊員という戦わざるを得ない悲痛な運命を知って、1年足らずの間でした。私はこのことに頭が下がり、その努力を称え、その努力実行力に深甚の敬意と感謝の言葉を捧げます。
 この魂の高貴さが、あの悟りを開いたような、神々しい顔写真となり、何度読んでも胸をうつ、あの立派な遺書となって残されたのです。
 知覧町におかれましては、長年、町をあげて特攻戦没者の慰霊に努められ、隊員諸兄の御心を伝え下さっており、深く感謝申し上げるところであります。
 特攻平和会館には子供等も多数訪れ、入館の時と出館の時の顔付きが異なっていると伺っています。隊員諸兄の御心が子供等に伝わっているのだと思います。この子供等が誇りある日本人に育ってくれることを信じたいと思います。
 隊員諸兄とともに、大東亜戦争を戦った私も85歳になりましたが、生ある限り、隊員諸兄の御心を孫子の代に語り伝え、愛する日本を誇りある国にしていかねばならないと思っています。
 在天の英霊、願わくば、我らの生きざまを御照覧下され、御導き賜らんことを。茲に、平和観音堂に眠られます1,036柱の御霊の眠り易かれとお祈りし、慰霊の言葉と致します。
         平成21年5月3日
         財団法人 偕行社
         陸軍士官学校第57期同期生会
                 代表 堀之北 重成

2008年4月23日 (水)

映画『南京の真実』第一部「七人の死刑囚」福岡上映結果報告

4月20日(日)13時より、菅原の主唱により日本会議福岡と共催という形でガスホール(福岡の西部ガス本社ビル、パピヨン24/2階)において、映画『南京の真実』第一部「七人の死刑囚」の上映会を開催致しました。

九州初上映でしたので鹿児島・長崎・宮崎・大分・佐賀からの参加もあり、定員533席は満席で、遅く来た方は通路に腰をおろして観るほどでした。しかし3時間に及ぶ長編の映画ながら途中退席する人は殆どなく、最後まで熱い視線で鑑賞して戴きました。

水島総監督の挨拶では製作の目的・経過等と、この後 第2部「検証編(ドキュメンタリー)」が進行中であり、3部作「アメリカ編」まで予定しているので御支援をと述べられました。
続いて主催者として菅原が御礼の言葉と、南京他視察した実状とを力強く述べました。

映画では能面をつけた男女二人の子供が象徴的な語りをしますが、土肥原賢二・松井石根・東條英機・武藤章・板垣征四郎・廣田弘毅・木村兵太郎の七人の死刑執行日が各自に宣告された昭和23年12月21日の夜からはじまります。そして23日の午前零時1分、午前零時21分にそれぞれ4人、3人が処刑されるまでの丸一日(7人の最後の一日)が描かれています。現在の心境や言い残しておきたいことなどを一人一人が花山信勝教誨師と問答してゆきます。家族や国への思い・安心立命の境地など、そして連合国による日本国家への断罪や東京裁判による不公正な判決は否認しながらも、日本再建とアジア興隆への礎石となるために慫慂として死につく覚悟・凜とした姿には、当時の為政者・軍人の品格・風格・威厳が観る者の胸を打ち、多くの人が涙して居りました。
また 映画では、東宝映画文化映画部の撮影隊が南京陥落(昭和12年12月13日)の翌日に南京に入り、12月15日から正月までの様子を撮った「南京-戦線後方記録映画」が一部使用され、当時の南京城内の平穏な様子が放映されました。中には正月の準備に慌ただしい日本軍の姿や爆竹に興じる支那の子供たちの姿も見られ、日本軍の入城後、南京では支那兵との戦闘や住民を巻き込んでの戦いが無かったことが見てとれます。この映像自体が「南京大虐殺」の否定を立証するものであります。

東京裁判の中で初めて米国・中国両国によって作られ突如として提起された「南京大虐殺30万人」という問題が、その後どんどん独り歩き始めて、その誤った認識が拡大している。菅原は十数年前の旧歴大晦日、珍しく20㎝近く雪の降った南京でこの記念館を訪ねたが、殆ど無人であったのを幸いに約3時間にわたり観察してその虚構を見たのである。

政府や政党が日本として、且つ日本人として行うべき反証反撃を全くせず、ただ謝罪に明け暮れるとは何と情けない事か! ここに水島総監督を始め、有志の日本人が立ち上がって庶民の浄財で出来上がったこの映画を広く見て貰い「これこそが真実だ」と伝えようではないですか!

最後になりましたが、当日の上映会に御参加いただいた皆様方に厚く御礼申し上げ、大盛会に終わりました事に感謝申し上げます。

2007年11月 1日 (木)

天皇皇后両陛下奉迎提灯行列

10月29日の天皇皇后両陛下奉迎提灯行列に約5,000人が参加!

              知事、県議会議長、市長、市議会議長が祝辞

■当初の予想3,000人を大幅に上回る参加がありました。

10月29日、天皇皇后両陛下におかれましては15年ぶりに本県へ行幸啓になりました。約1ヶ月に亙って準備して参りました天皇皇后両陛下奉迎提灯行列は、日本会議福岡が主導して諸団体並びに多数の関係者のご協力と市有力企業の協賛もあり盛り上がり、当初の予想の3,000人を6割以上も上回る約5,000人の県民が参加する大提灯行列となりました。(3,500個の提灯と1,000本の日の丸の小旗でも足りず。)

 午前中は小雨もみられ天候が心配されましたが徐々に回復し、昼間強かった風も夕方には大分おさまりました。舞台や横断幕と大国旗(2m×3m)を掲揚する足場は当社(㈱未来図建設)が朝から設営し立派なものが用意されて居りまして、記念写真を撮る人も多く居られました。16時30分を過ぎた頃から次第に参加者が増えたので、出発式も10分繰り上げて18時20分に実施致しました。

 最初に西高辻副会長(神社庁長)より力強い開式宣言があり、国旗敬礼、国歌斉唱と続き、田中会長より各界関係者へのご協力の御礼と両陛下の御慰問に対する感謝の言葉が述べられました。続いて26名の来賓の方々のご紹介があり、祝辞は麻生県知事、貞末県議会議長、吉田市長、川口市議会議長の4名より行われました。かもめ広場で両陛下が19世帯42人一人ひとりにお声をかけられているご様子や、その光景に感激したお話、更には玄海島の完全な復興へ決意を新たにした思いが語られ、両陛下の今回の御慰問に心からの感謝の辞が述べられました。この後、河部名誉顧問(福岡商工会議所会頭)の先導で「天皇皇后両陛下万歳」が声高らかに三唱され、山本実行委員長の閉式の辞で50分に亙る出発式が終了しました。

 間もなく参加者に提灯への点灯が呼び掛けられ、19時20分、菅原副会長の「出発」という大音声で、県知事・田中会長・川合名誉顧問、西高辻副会長を先頭にボーイスカウト・第一梯団が続き、「ふれあい広場」を出発致しました。歩道や車道では「天皇陛下万歳」の発声とともに提灯を高く掲げ、約1㎞に亙る行進を行いました。
流れ解散をしたのですが、電気ビル前では、お泊まりのホテルニューオータニに向かって国歌斉唱や万歳三唱が繰り返され、先頭が電気ビルに到着したのが19時40分、最終の第6梯団が到着したのが20時40分。全ての参加者が解散するまでに1時間以上もかかる大提灯行列となりました。跡片付担当や設営担当者(当社)は、その後21時30分まで解体跡片付けを行いました。

この様子はマスコミや新聞には殆ど報じられなかったのは当事者としては残念な思いでした。30日・31日の行事については報道された通りです。要所々々では当方が配布した日の丸の小旗を打ち振る県民の姿が見られました。

主催者の予想を遙かに上回る参加者でしたので、お申し込みをされた方や遠くから来られた方で提灯がお受取りになれずに残念な思いをされた方も多数おられたことと思います。一言お詫び申し上げます。   以上

天皇皇后両陛下福岡奉迎委員会 会長代行  菅 原 道 之

 

2006年11月13日 (月)

「人間魚雷回天慰霊祭」参加

平成18年11月12日

今日は人間魚雷回天の慰霊祭に参加をした。

大東亜戦争の後半、敗退がつづく日本海軍は、遂に必死必殺のこの恐るべき

兵器を使う決心をした。

己の命をかけて愛する祖国日本を守ろうとする若者たちが、発案者・黒木大尉、

仁科中尉を始め、全国から2000人余が山口県の大津島・平生・光・大神の

各基地に集まり、猛烈な訓練と共に「ウルシーの敵泊地の攻撃」を始め数々の

特攻を行った。1人乗りの回天は86名の戦死者・16名の殉職者を出した。又

回天整備のため共に出撃した整備員36名も潜水艦と運命を共にしたのである。

回天を積んで出撃した母艦である潜水艦も7隻は未帰還となり、乗組員は全員

戦死である。

此の慰霊祭は毎年回天顕彰会主催で回天記念館のある山口県周南市大津島

の回天碑前で11月の第2日曜日に行われて居り、今年も11月12日(日)に

挙行された。気象台の11日の暴風警報発令と12日も悪天候予報に心配したが、

幸い波風は無し暑い位の日照りとなった。

徳山着の新幹線を選んで博多駅を8時59分発、徳山港10時発のフェリーにて

大津島へ渡る。主に海軍さんが乗って居り、途中いろいろ懇談する。11時より

慰霊祭開始。遺族の方は今年は28人(昨年11月13日は46人)、北の果ての

礼文島よりも来られていた。

来賓に山口県知事(代理)、周南市長(代理)、周南市議会議長(代理)、航空・

海上・陸上各自衛隊幹部等の方々を迎え、関係団体等々総勢約300人の盛会

であった。途中、航空・海上各自衛隊から3機編隊2群大型飛行艇1機が現地

上空を飛行してこの慰霊祭に参加された。

地元の小学校長先生が作詞された回天特攻戦士をたたえる詩文を尺八と共に

吟士お二人計3人で奏され、涙の出る深い感銘を与えられた。続いて、徳山の

回天太鼓は白装束の若い男女約20名により回天攻撃を表現した勇壮且つ悲壮

な響きの特別出演があった。全員で献花を行い英霊に感謝の誠を捧げた。その

後 回天舞踊が徳山商工会議所女子部10名の方々により見事に行われた。

式後、記念館(館長小川宣氏)を拝観(入場料240円)したが、知覧を小型化し

た様に、遺品・遺影・参考品・説明写真や文が展示されて居り、感慨深いもの

であった。館前には回天実物大(長14.5メートル、1人乗り、爆薬1.5トン、

連力30ノット〔型によっては1部40ノット〕)が展示してある。この発案者黒木大

尉は19年9月6日訓練が始まって2日目にこの回天第1号に樋口大尉との同乗

訓練の際、海底に事故で突入し 2人とも無念の殉職を遂げたが、彼は艇内で

次第に無くなる酸素欠の中で絶命するまでの10時間に2000字に及ぶ記録・

意見を遺書として書き残し、この国を思う一念は涙無くしては読まれず、往年の

佐久間艇長の件を思い起こす事故である。

遺族休憩所では本日は無料でぜんざい・お神酒を出しておられ有難く頂いた。

下って海辺には昔の回天を運んだレール跡も残るトンネルを通って回天降し

クレーン場跡を見学した後、14時の徳山行きの復路フェリーに間に合い乗船し、

徳山にて新幹線に乗り換え帰福した次第であります。

尚、『特攻最後の証言』に【人間魚雷 回天】証言を記述された回天生き残りの

海軍兵学校72期(陸軍士官学校57期と同期となる。海軍は任官進級が早い

ので、終戦時海兵72期は大尉、私達陸士57期は中尉であった)の小灘利春

大尉にここで会えると思って来たが、彼は惜しくも本年9月に亡くなったとの事

で残念至極であった。

博多からでも充分日帰りで行ける所にあるので、是非慰霊訪問をお勧めします。

プロフィール

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正しい歴史を考える会

誤った歴史認識や教育が多い今こそ、私共の経験と知識とを基に、正しく歴史を考え主張し、若い世代を主対象に判りやすく語りかけて、後世に伝えたいと思って居ります。