2014年7月 7日 (月)

大東亜戦争全国戦没者慰霊祭参加報告と7月7日で想うこと

今日は昭和12年に盧溝橋事件が起こった日で、小生は大邱公立中学校1年生であった。スターリン・中国共産党の策略にはめられた日本と蒋介石政権とはお互いが不信に陥り、支那事変に拡大し、遂には大東亜戦争へとなった肝に銘ずべき日である。
大邱中学校の隣が歩兵第80聯隊(当時第20師団に属し、国内では最後の番号の歩兵聯隊であった)なので、忽ち出征が始まり、日々戦時色が濃くなった。
その影響もあって、中学5年を待たず、4年から陸士を受験して合格したので入校・卒業して軍人となった訳でもあります。

本年も7月5日には靖国神社で定例の大東亜戦争全国戦没者慰霊祭(平成26年度)式典が行われた。私も福岡県偕行会会長及び陸士57期生会員として出席しました。
羽田空港から靖国神社へと直行したので11時の受付時間前に到着し、有志の方々と面談し乍ら12時の開会を待った。
我が陸士57期生は約2,300人 も居たが、地上兵科と航空科とに分かれ、更に各兵種に分かれるのだが、部隊の数が多いので全部の部隊には行き渡らなかったが、激戦地の部隊へは重点的に配置した為、当然フィリピン・ビルマ等々では多数の戦死者が出たし、航空では戦闘機隊では消耗が多く、地上兵科から450名程が航空科へ転じて戦ったが、特攻隊にも主として隊長として約100名が散った。合計で3分の1の約800人の戦死者を出した期であるので思い入れは深い。
参集殿大広間での式典の後、更に奥の間に昇殿参拝をし、各集団の代表と共に玉串奉奠を行い、いつもそうであるのだが、正面の大鏡の前では誠に身が引き締まり、心から御冥福をお祈りした次第です。
この会も実戦経験者は数少なくなってきました。(陸士卒では我々陸軍中尉の57期が最終で、以後の期は58期は少尉に任官早々で、59期から61期生はまだ在学中でした。)

大東亜戦争(太平洋戦争では無い)では陸軍は決戦を出来ないままに終戦となりました。
満洲でも無法国家ソ連が協定を反古にして勝手に攻め入り、我軍が計画していた決戦の前に大命が下って終戦となった。大命拳々服膺したのです。それが仇となって在満邦人の保護も出来ず、約60万の軍人は無謀なソ連軍にシベリアの奥地に連れ去られた上、虐待と重労働を課せられて、1割の方々は望境の念にかられつつ亡くなったのです。
アメリカは非人道的な原爆を広島・長崎に投じ、数十万人を虐殺したのです。
昔から武力を持った白人に侵略されて、その圧政に呻吟していたアジアの人々や有色人種は、日露戦争以来の日本の立ち上がった姿を見て目を覚まして立上り、すべて独立して白人達と対等になりました。
毎日の世界の報道を見て下さい。よく判るでしょう。    以上


2013年5月15日 (水)

第1回 福岡県特攻勇士慰霊顕彰祭を行いました

昨年平成24年12月8日(大東亜戦争勃発記念日)を期して福岡縣護国神社内に奉納設立除幕式を行った「福岡県特別攻撃隊勇士之像」ですが、その折 今後毎年、ここ縣護国神社の春季例大祭に合わせて、その2日目の5月4日15時より像前にて『慰霊顕彰祭』を行うと決めて居りました。
それに従い本年平成25年5月4日(土・祝)15時より、「第1回 福岡県特攻勇士慰霊顕彰祭」を執り行いました。

晴天にも恵まれ連休中にも拘わらず、約210名の御出席をいただき、御陰様にて厳粛かつ盛大に終了いたしました。
終了後には記念写真を撮る方々や像を詳しく見る方々も多く、御遺族を含め出席者からは「本日の慰霊顕彰祭に出席して良かった」「感激した」等々の言葉が聞かれ、当事者として担当者一同喜ぶと共に、毎年5月4日15時からの当祭実行を誓ったのでありました。

当日の様子はこちらで詳しく載せていますので是非見てください。
http://www3.coara.or.jp/~nippon_f/tokkou-ireisai.htm

2013年4月 5日 (金)

ジャーナリストの勝谷誠彦氏と笹幸恵さんが福岡陸軍墓地を視察

3月16日、ジャーナリストでテレビコメンテーターとしても有名な勝谷誠彦氏が福岡陸軍墓地を視察する事になり案内しました。勝谷氏は福岡TNCテレビで月1回のレギュラーコメンテーターをされて居り、同番組で一緒にコメンテーターをされている福岡大学の木下敏之教授を通じて、是非福岡の陸軍墓地を見ていただきたいという事になり実現したものです。

また、4月3日には産経新聞等でおなじみのジャーナリスト笹幸恵さんが、わざわざ東京から同陸軍墓地を参拝ならび視察に来られました。笹さんは東京の(公社)特攻隊戦没者慰霊顕彰会の理事でもありますので、墓地視察の後、福岡県護国神社に御案内し「特攻勇士之像」を見ていただき参拝されました。

勝谷氏と笹さんの御案内の様子詳細につきましては、また後日報告いたします。

2012年4月12日 (木)

第36回都城市特別攻撃隊慰霊祭について

平成24年4月6日(金)、定例となっている上記の慰霊祭が、今年も場所は同じ都城陸軍墓地の特攻慰霊碑前で奉賛会主催で行われた。私も福岡県偕行会長・陸士57期生会九州代表として参加をしました。

昭和20年4月1日、米軍の沖縄上陸攻撃に合わせて第1特別振武隊(隊長林少尉以下8名)が4月6日都城西飛行場から沖縄方面敵機動部隊めがけて特攻突入したのを始めとして、計10隊が17次に分かれて85名が当時最新鋭であった四式戦闘機(疾風・はやて)に乗って特攻を行ったのである。10隊共指揮官(隊長)は私共同期の陸士57期生である。10名の内8名は陸軍航空士官学校卒、1名は陸軍士官学校入校後1次で航空転科、残る1名金丸亨君は陸士卒業と当時に戦車兵から航空に転科したのであるが、いずれも優秀な猛者揃いであった。私は歩兵科であり、陸士卒業後会津若松の155聯隊の聯隊旗手を勤めていたが、航空兵を志願して転科して、当時は千葉習志野の偵察学校で航空兵としての再教育を受けていた。金丸君とは陸士本科では同じ8中隊での隣区隊で、起居を共にした仲である。

私事であるが4月6日という日は私にとっては昭和13年に母を、昭和24年に兄をそれぞれ病で亡くした命日であります。その墓参の為当初は同日である都城の慰霊祭には失礼していたのであったが、都城市で建てられた慰霊碑に加えて我が57期生会での慰霊碑も建立したので、それからは毎年慰霊祭に57期生として参加をしてきたのであります。
この行事では特攻で亡くなった方に合わせて、特攻を掩護して作戦した各飛行戦隊からも64名の方が戦死殉職(この中には57期生も含む)されました。
当日は奉賛会(各地と同じ様にここも会長は市長さんです)から予め要請があり、会長の祭文に続いて私が追悼の詞を述べる事となりました。

当6日は朝5時に起床して福岡空港から宮崎空港へ、ここから8時30分発のバスで西都城駅着、毎年の事ながら特攻隊長生き残り(金丸君より早く突入の予定が命令の具体で後となり終戦となった)である大阪からの藤井君と一緒になり、タクシーで現地着。我々57期生も段々と減って本日は僅か6名の参加となった。式典は予定通り進行し、私も追悼の詞を(5分内)少し早口ではあったが無事申し納めました。我々57期を始め偕行会員で校歌を唱い、少年飛行兵出身者と共に「海ゆかば」「加藤隼戦闘隊」「同期の桜」を合唱した次第でありました。
当日は晴天で、且つ満開の桜(去年は大分散っていた)の下で昔の勇士を偲ぶ事が出来た有意義な日であり、我々57期生は芝生の中の亭で宮崎57期生会世話人緒方君の好意による弁当をいただき乍ら昔話に花を咲かせた。

終わって私と藤井君とは地元の世話人であったが3年前に亡くなった同期生の伊黒君(居合道10段範士)の霊前にお詣りして宮崎空港に向かった。宮崎空港では滑走路北端にある陸海軍の爆撃機による特攻の慰霊碑(明日が慰霊祭らしく、その準備をしてあった)に参拝してから夕方の航空便で帰福し、一日を終えたのであった。

「追悼の詞」と「特別攻撃隊戦没者名簿」とをこちらに掲載しています。どうぞご覧になってください。

 

2010年5月 6日 (木)

知覧特攻基地戦没者慰霊祭においての慰霊の言葉

平成22年5月3日(月)に鹿児島県南九州市の知覧特攻観音堂前で行われた『第56回 知覧特攻基地戦没者慰霊祭』に参列いたしました。
我々を代表して陸軍士官学校での57期の同期生である堀之北重成氏が「慰霊の言葉」を捧げております。 堀之北君が心魂込めて作成したのですが、本人は病気入院中の為、惜しくも出席出来ないので、代わって同期生の矢崎君が代読しました。 各方面から多くの感動の言葉が寄せられました。

「第56回知覧特攻基地戦没者慰霊祭においての慰霊の言葉」 http://www3.coara.or.jp/~nippon_f/kawaraban220506.htm

プロフィール

フォトアルバム

正しい歴史を考える会

誤った歴史認識や教育が多い今こそ、私共の経験と知識とを基に、正しく歴史を考え主張し、若い世代を主対象に判りやすく語りかけて、後世に伝えたいと思って居ります。