2006年7月 7日 (金)

7月7日 今日は何の日?

18年7月7日 今日は七夕・小暑ですが

(1)廬溝橋事件が起こった重要な日です。

支那事変から大東亜戦争へと拡大して行ったあの戦争の発端はスターリン(ソ連)と

毛沢東との秘密合意により行われた中共(現在中国と称す)側工作による日中両軍

に向けての作意的発砲であった。

この事件は世間では偶発的なものとされているが、決してそうではない。

筆者菅原が陸士予科2中隊時代に区隊長として訓育していただいた桂鎭雄殿は、

その当時支那駐屯地歩兵第2連隊所属の小隊長であり、廬溝橋近くで演習をして居た

新設の第1連隊第3大隊の小隊長とは同期であり、その事情には詳しい人である。

文藝春秋1988年7月号に「廬溝橋事件真犯人は中共だ」(私は東京裁判で事件の

証言を中止させられた)に載っているので見られたい。

もし手元に資料が無く希望される方には発信(発送)します。

歴史は不思議なものである。

この歩兵第1連隊の連隊長は牟田口大佐、第3大隊長は一木少佐であった。

牟田口連隊長はその後昇進してビルマの第15軍司令官として印度のインパール

攻撃を行ったが、補給が続かず残念乍らインパールを目の前にして挫折し、ビルマ

方面軍河辺司令官は昭和19年7月5日インパール作戦の中止を命令し、各部隊は

雨期の最中で大河を越えての撤退を止むなく行い、非常な犠牲を伴ったのであった。

一木第3大隊長は旭川の精鋭で編成された一木支隊(連隊)は、ミッドウェイ攻略

部隊として輸送されたが、海軍の作戦失敗により同攻撃は中止となり各所を経て

トラック島に駐留していたが、その後海軍が設営完成したばかりのガダルカナルを

米軍に占領されたのでその奪還を命ぜられ、昭和18年8月18日一木支隊長が

直接指揮する一ヶ大隊が先遣隊とし駆逐艦6隻により勇躍ガダルカナル島に上陸

した。

状況を甘く見て本隊の到着を待たずして20日攻撃を開始した。だが予期しなかった

猛烈な火力なより死傷続出して奪回ならず、ついで21日には一木大佐以下多数

が戦死する悲運に見舞われたのであった。

(2)サイパン島守備隊が最後の突撃を行い玉砕し、日本軍の組織的戦闘は終わっ

た日である。(玉砕の発表は7月18日行われた。)

とかく仲の悪い陸海軍を何とか協力一致させるべく、戦いの主力になる海軍に期待

する意味から、19年3月には中部太平洋に居る陸軍部隊も含めて連合艦隊司令官

の指揮下においた。

サイパン島では中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将が総指揮をとることと

なった。だが、軍艦らしい艦も無く陸に上がったカッパみたいなものだっただろう。

サイパンを取られたら本土は撃撃圏内に入るのは明らかであった。

これを防衛するのにその準備が殆ど出来てなかった。陣地構築が未完のところに敵

大軍上陸である。1ヶ月位前に防衛に急遽配備された43師団だけが頼りであった。

例えば野戦重砲部隊も未完の陣地で大いに威力を発揮したが、1週間で将校の7割

は戦死となると、後は力が発揮できないわけである。

数字で見ると軍人数は多いが大体は海軍の根拠地で、病院・補給・慰安の施設が

多く、実戦できる部隊は陸軍の43師団が主力であとは戦力無き集団にすぎなかった。

追いつめられてマッピ岬から女性が次々と投身自殺するのが米軍の記録で見られ

涙を誘う。

島では沖縄戦と同様に永住の地と決めた住民が多く、逃場が無いだけに巻き添えの

玉砕が忘れられない。

軍も住民には投降をすすめたと思われるふしもあり、6日の朝には米軍によると800

人位の住民が投降したとの事である。

南雲中将・斉藤43師団長以下幕僚・幹部は6日相次ぎ自決しておられる。

尚、大本営において当方面の作戦参謀であった晴気(はるけ)誠少佐は、その責任を

感じて終戦の翌日市ヶ谷台の陸軍省で自決して果てられた。

本日の新聞・テレビ・ラジオではこの様な国民に知らせるべき大事な史実が一切見聞

きできないのは、当時を知り国を憂う者としては誠に残念である。

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正しい歴史を考える会

誤った歴史認識や教育が多い今こそ、私共の経験と知識とを基に、正しく歴史を考え主張し、若い世代を主対象に判りやすく語りかけて、後世に伝えたいと思って居ります。