2014年9月 2日 (火)

今日は何の日 「9月2日」

大東亜戦争において、未だ決戦をしてなかった我が大日本帝国陸軍では、時の陸軍大臣阿南大将をはじめ、終戦など考えもせず本土決戦を準備中であった。然し御聖断が下された為従う他無く、大臣は割腹され、十数時間苦しまれて死去された。我々若い将校も呆然自失し、そのあとは種々あったが、結局死ななかった。
そして今日90歳も越えて尚も生きている。

実際の終戦は、戦闘中止の8月15日ではなく昭和20年の本日である。

時の米国トルーマン大統領の出身地はミズリー洲であったので、降伏調印式にはわざわざ戦艦「ミズリー号」を東京湾に呼び寄せ、その艦上で行われたのである。更に江戸末期に日本に開国を迫ったペルー提督の旗艦に掲揚されていた『星条旗』を保管先の博物館からわざわざ運ばせて、「ミズリー号」艦橋に掲げさせるという念の入れ様であった。

連合国側は米国(マッカーサー大将、ニミッツ海軍大将以下)・英国・フランス・オランダ・中華民国(中共では無い)・カナダ・ソビエト(今のロシヤに近い)・オーストラリア・ニュージーランドの各国代表が出席し、日本側からは日本政府全権大使・重光葵外務大臣(隻脚の)・大日本帝国大本営全権梅津参謀総長陸軍大将(丸腰である)以下が並んだ。

勿論日の丸はどこも見られないし、帝国陸軍正規服装から軍刀を外すという等々正に屈辱そのものであったので、列席の日本人の胸中いかばかりならん。
調印後、マッカーサー大将は演説を行ったが得意の絶頂であったろう。

戦後69年となる今日改めて当時を思い起こし、我々日本人は決して未来永劫にこの日と、調印式のこの光景とを忘れてはならないのだ。


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 昭和20年9月2日ミズーリ艦上で降服文書の調印式が行われた。写真は調印する重光日本政府代表、前方後向はマッカーサー連合国最高司令官。

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 東京湾停泊中の戦艦ミズーリ号

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2014年8月 7日 (木)

8月6日に念ず

私の本籍地は広島です。朝鮮育ちですから昔は広島には陸士に入校するまでは全く行った事がありません。

市内の吉島という所に伯母の大きな2階建の家があり、陸士時代に一度訪ねた事があった位でした。昭和19年7月1日に(歩兵)少尉に任官して会津若松の155聯隊付となり、聯隊旗手を勤めていたが、航空兵に志願して転科し、偵察将校としての再教育を受けた上で司令部偵察機(2人乗り)の機長兼偵察となり支那派遣軍の第5航空軍82戦隊へ赴任した。満洲の奉天飛行場に駐在していた8月6日に、広島が空襲を受け、相当な被害があり、「敵米軍は原子爆弾と称す」との情報が入ってきた。「我が方の損害は軽微なり」というその頃の報道と違い、相当な被害というからには、これは只事ではないと感じたのを覚えている。そして終戦となった。

朝鮮の京城(今はソウルという)の金浦飛行場に移動していた私に『済州島へ行き、現地砦部隊の参謀長を乗せ東京へ届けよ』との命令が下された。 8月22日午後夕方近く、金浦空港から済州島に飛んだ。美しい海に夕日輝く内で、済州島に着陸。一泊して、翌朝参謀長を乗せて東京に向かった。途中参謀長の要望により広島を視察する事とした。その時の光景は一生忘れない。崩れた建物と一面の焼野原と化した広島の市街であった。人影は無かった。

伯母の生死は? 田舎に疎開していた様だから大丈夫だろうと思っていたが、後で聞くと息子(長男)の許嫁の実家(広島市の爆心地基町近くの材木問屋)に泊まりがけで出広して居り、6日朝には田舎に戻る予定だったが8時の列車に乗り遅れてまだその実家に居た。そこに8時15分『ピカドン』が落ちたのだ。

全く恐ろしい運命であった。材木屋(川沿い)だから骨組みも大きく、その家が一瞬で崩れ、梁や屋根の下敷きとなった由である。許嫁は何とか抜け出せたが、伯母と許嫁の妹とは動けなかった。助ける人も無く、その内に近くで火事が起こり、その火がどんどん近づいて来たそうだ。伯母は「貴女は逃げなさい」と苦しい息の下で言った由である。どうしようもなく危険が迫り許嫁は逃げたという。残された伯母と妹とは逃げられず、生きたまま焼け殺されたのだ。苦しかったろう! 辛かったろう!

あれから69年。今日は首相も参加して慰霊祭が朝から行われてテレビで放送された。思い万感! 8時15分には心を込めて拝んだ。

「過ちは繰返しませぬから」と今日テレビでは言っている。だが、この意味は何だ? 広島大の雑賀忠義教授が作った言葉だというが。

大東亜戦争が間違いだったというのか? 一有色人種だから落したのか? 謝るのは投下した米国であり、命令した大統領トルーマンだろう! この様な不本意な文字を刻んでいる碑は撤去すべきだ。すでにその運動は起きているのだが、本日のテレビでは出てこなかった。

然し「許すべからず!」 「米国の罪だ!」 米国はこれで百万人の米人が死ななくて良かったと言っているらしい。何てことだ。 原爆も小型になっている。万一、テロでワシントンで原爆・水爆が破裂しても、そんな事言って居れるのか?

 【今日は悲しい。】

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2013年7月 8日 (月)

7月7日は支那事変勃発の日です

昭和12年の7月7日は、支那との「日支事変」が始まった日(盧溝橋事件が起こった重要な日)にも拘わらずどのマスコミ・新聞もこの史実を解説したところはなかった。
哀れな日本になったものである。

支那事変から大東亜戦争へと拡大して行ったあの戦争の発端はスターリン(ソ連)と毛沢東との秘密合意により行われた中共(現在中国と称す)側工作 による日中両軍に向けての作意的発砲であった。
    
この事件は世間では偶発的なものとされているが、決してそうではない。 筆者菅原が陸士予科2中隊時代に区隊長として訓育していただいた桂鎭雄殿は、その当時支那駐屯地歩兵第2連隊所属の小隊長であり、廬溝橋近くで演習をして居た新設の第1連隊第3大隊の小隊長とは同期であり、その事情には詳しい人である。
文藝春秋1988年7月号に「廬溝橋事件真犯人は中共だ」(私は東京裁判で事件の証言を中止させられた)に載っているので見られたい。
もし手元に資料が無く希望される方には発信(発送)します。

歴史は不思議なものである。
この歩兵第1連隊の連隊長は牟田口大佐、第3大隊長は一木少佐であった。牟田口連隊長はその後昇進してビルマの第15軍司令官として印度のインパール攻撃を行ったが、補給が続かず残念乍らインパールを目の前にして挫折し、ビルマ方面軍河辺司令官は昭和19年7月5日インパール作戦の中止を命令し、各部隊は雨期の最中で大河を越えての撤退を止むなく行い、非常な犠牲を伴ったのであった。
一木第3大隊長は旭川の精鋭で編成された一木支隊(連隊)は、ミッドウェイ攻略部隊として輸送されたが、海軍の作戦失敗により同攻撃は中止となり各所を経てトラック島に駐留していたが、その後海軍が設営完成したばかりのガダルカナルを米軍に占領されたのでその奪還を命ぜられ、昭和18年8月18日一木支隊長が直接指揮する一ヶ大隊が先遣隊とし駆逐艦6隻により勇躍ガダルカナル島に上陸した。
状況を甘く見て本隊の到着を待たずして20日攻撃を開始した。だが予期しなかった猛烈な火力なより死傷続出して奪回ならず、ついで21日には一木大佐以下多数が戦死する悲運に見舞われたのであった。
      

2011年6月23日 (木)

6月23日に想う

本日は沖縄慰霊の日である。
大東亜戦争の後半期に日本の国土である沖縄に、昭和20年4月1日から優勢な米軍が上陸を開始した。既に海上兵力の殆どを失って居た我が海軍は阻止する事は出来なかった。且つ、大本営陸軍部は敵が台湾を目指すかも知れないと案じて、劣勢の台湾陸軍へ沖縄に布陣した1個師団を抜いて廻し、穴埋めは支那戦線から移動するつもりでいたが、米海軍、特に潜水艦の抜コの為実現出来ない内に敵を迎えたのであった。この為2ヶ師団主力となって、3分の2に減った現地第32軍は海岸で阻止する作戦は採らなかったのである。普天間に続く丘陵に布陣していた京都師団では、海軍の実情を知らされてなかったので、望遠鏡で敵の上陸を見ながら「連合艦隊は何をしているのか?」と不思議がったと言われている。

一般人である沖縄県民も北部への疎開や内地への引き揚げがはかどらい内への、敵の上陸攻勢に戸惑い乍らも軍に協力をした。各学校上級生は実行部隊を編成したり看護係として戦った。中には太田氏他3名の如く最終段階では逃亡した者も居たが、大部分の方々は勇戦奮闘した。その為多くの民間人の戦死や負傷者が続出したのであった。

補給や補強がない島での戦闘では、結果は明白である。さしもの日本陸軍も軍としての組織的戦闘は6月23日 牛島軍司令官・長参謀長以下の自決により終了したとされ、戦後はこの日をもって沖縄糸満市の平和慰霊公園で【沖縄全戦没者追悼式】が毎年行われるのである。

世界の恒久平和を願うのは当然であるが、我々としては平和の裏には「国を護る為には死をも恐れず断固として戦うぞという強い精神力と実行力とがなければならない」という事を覚悟しなければならない。

2006年9月 1日 (金)

9月1日 今日は何の日?

大正12年9月1日

関東大震災が発生した。現在この日を「防災の日」として周知の事なので省略す。

昭和14年(1939年)9月1日

ドイツ軍が一斉にポーランドに侵入す。8月23日にソ連スターリンとの間に独ソ

不可侵条約を結んだヒットラーは、ポーランドとの国境に大兵力を集結し1日

ゲーリングの率いる強力な空軍でポーランド空軍と撃滅し、6装甲師団、4自動

車化師団の新鋭機甲戦力を中核として、計52師団をもって一斉に国境を突破

して侵入を開始した。旧装備のポーランド軍は不意を打たれわずか18日間の

抵抗で壊滅した。平時の国境情勢に関する状況判断の甘さと情報収集の無力

と軍備の近代化準備不足とが、この国の悲運を招いたものである。

ポーランドに対して英国・フランス両国は相互援助協約を結んでいたのであるが、

事前にドイツに対する牽制行動は全く行わず「専守防衛」を建前にしてポーランド

を見殺しにしたのである。

昭和17年9月1日

閣議で大東亜省の設置を決定。二元外交の因になると反対した東郷茂徳外相は

辞任し後任は東條首相が兼務した。

昭和20年9月1日

第88回臨時帝国会議が招集された。(但し4日開会5日閉会した)

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正しい歴史を考える会

誤った歴史認識や教育が多い今こそ、私共の経験と知識とを基に、正しく歴史を考え主張し、若い世代を主対象に判りやすく語りかけて、後世に伝えたいと思って居ります。