« 大東亜戦争全国戦没者慰霊祭参加報告と7月7日で想うこと | メイン | 今日は何の日 「9月2日」 »

2014年8月 7日 (木)

8月6日に念ず

私の本籍地は広島です。朝鮮育ちですから昔は広島には陸士に入校するまでは全く行った事がありません。

市内の吉島という所に伯母の大きな2階建の家があり、陸士時代に一度訪ねた事があった位でした。昭和19年7月1日に(歩兵)少尉に任官して会津若松の155聯隊付となり、聯隊旗手を勤めていたが、航空兵に志願して転科し、偵察将校としての再教育を受けた上で司令部偵察機(2人乗り)の機長兼偵察となり支那派遣軍の第5航空軍82戦隊へ赴任した。満洲の奉天飛行場に駐在していた8月6日に、広島が空襲を受け、相当な被害があり、「敵米軍は原子爆弾と称す」との情報が入ってきた。「我が方の損害は軽微なり」というその頃の報道と違い、相当な被害というからには、これは只事ではないと感じたのを覚えている。そして終戦となった。

朝鮮の京城(今はソウルという)の金浦飛行場に移動していた私に『済州島へ行き、現地砦部隊の参謀長を乗せ東京へ届けよ』との命令が下された。 8月22日午後夕方近く、金浦空港から済州島に飛んだ。美しい海に夕日輝く内で、済州島に着陸。一泊して、翌朝参謀長を乗せて東京に向かった。途中参謀長の要望により広島を視察する事とした。その時の光景は一生忘れない。崩れた建物と一面の焼野原と化した広島の市街であった。人影は無かった。

伯母の生死は? 田舎に疎開していた様だから大丈夫だろうと思っていたが、後で聞くと息子(長男)の許嫁の実家(広島市の爆心地基町近くの材木問屋)に泊まりがけで出広して居り、6日朝には田舎に戻る予定だったが8時の列車に乗り遅れてまだその実家に居た。そこに8時15分『ピカドン』が落ちたのだ。

全く恐ろしい運命であった。材木屋(川沿い)だから骨組みも大きく、その家が一瞬で崩れ、梁や屋根の下敷きとなった由である。許嫁は何とか抜け出せたが、伯母と許嫁の妹とは動けなかった。助ける人も無く、その内に近くで火事が起こり、その火がどんどん近づいて来たそうだ。伯母は「貴女は逃げなさい」と苦しい息の下で言った由である。どうしようもなく危険が迫り許嫁は逃げたという。残された伯母と妹とは逃げられず、生きたまま焼け殺されたのだ。苦しかったろう! 辛かったろう!

あれから69年。今日は首相も参加して慰霊祭が朝から行われてテレビで放送された。思い万感! 8時15分には心を込めて拝んだ。

「過ちは繰返しませぬから」と今日テレビでは言っている。だが、この意味は何だ? 広島大の雑賀忠義教授が作った言葉だというが。

大東亜戦争が間違いだったというのか? 一有色人種だから落したのか? 謝るのは投下した米国であり、命令した大統領トルーマンだろう! この様な不本意な文字を刻んでいる碑は撤去すべきだ。すでにその運動は起きているのだが、本日のテレビでは出てこなかった。

然し「許すべからず!」 「米国の罪だ!」 米国はこれで百万人の米人が死ななくて良かったと言っているらしい。何てことだ。 原爆も小型になっている。万一、テロでワシントンで原爆・水爆が破裂しても、そんな事言って居れるのか?

 【今日は悲しい。】


コメント

コメントを投稿

プロフィール

フォトアルバム

正しい歴史を考える会

誤った歴史認識や教育が多い今こそ、私共の経験と知識とを基に、正しく歴史を考え主張し、若い世代を主対象に判りやすく語りかけて、後世に伝えたいと思って居ります。