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2014年6月26日 (木)

「慰安婦」とは?

多忙でブログを書き損なって居りすみません。 なるべく多く書く様にしたいと思っています。

手始めに 「慰安婦」の事について、帝国陸軍中尉として書きましょう

「慰安婦」とは何ぞや?

当時「SはPならず」という言葉をよく耳にした。Sとは「芸者」でありPとは「娼婦」の事である。

陸軍少尉に任官したのは、陸軍士官学校を19年4月に卒業した年の7月1日で満19歳であった。誕生日の7月19日までは19歳の若僧が聯隊旗手としてバリバリで通ったのでした。見た目には27~8歳に見えたと言われて居ました。

歩兵の聯隊旗手は神聖な軍旗を捧持する身ですから、宴席には出ても女性とは話も殆どする事は無く、触れる事など有りません。専ら武術に打ち込み、戦術や戦例を勉強し、新兵さんを教育するという毎日でした。

その内、志願して航空兵に転じたのですが、再教育を受けての新任地は支那派遣軍の航空軍で、主として満洲に駐留しました。偵察が主任務で、解放された気分で良く飲みました。

内地ではその頃は合法的に遊廓というのが有り、満洲(奉天に居た)にも同じ様な遊廓の様な所があった。我々若い同期生は結構高級な料亭で若い芸妓さんと他愛なく遊んだものでした。(SはPならず) 我々航空部隊は割と大きな街に居たので、所謂戦地(出撃すれば戦死もするのだが)の慰安所を見た事が無いのです。

慰安婦というから慰安所があったのかと思うが、他の兵種の者に聞いてもよく判らないのが実情です。

慰霊の為ニューギニアから南方諸島・フィリピン・ビルマ・タイ・インパール・ノモンハン・バイカル湖・チタ・ハバロスク・ウラジオストック・満洲・支那(南方地方も)等々を廻りましたが、慰安所の話は聞く事は殆ど有りませんでした。

只、雲南の拉孟・騰越・龍陵等の第56師団が雲南遠征軍の大軍の攻撃を受け激闘の末、 玉砕が相次いだが、現地には支那軍の戦勝記念館が有り、そこには捕まった朝鮮人慰安婦として数名の写真があった。話では日本人女性は銃をとり皆戦死されたとの事である。この件は記憶に残っているが、この他には無い。日本陸軍は衛生上の心配から軍医さん達が予防検査はしていたらしい。

陸軍将校であった私さえ、その実態を殆ど知らないので教えて欲しいと思う。 「従軍」とゆう変な名前は誰が付けたのだろうか? 全くけしからん話です。

任務を持っている帝国軍隊が女を強制連行する等する筈がないではないか?

娼婦はその家族によって仲介人に売られたのであり、その女性本人は知らないから強制されたと思っているのでは無いのか?

私は朝鮮で生まれ16歳まで育ったのだか、勿論そんな話は知らないし、残っていた家族や知人達もそんな事は聞いた事も見た事も無いと言っている。

70年以上の年を経て当時の事情を知る年代がもう少なくなり、その内絶えてしまうから、早く実情を調べて欲しいと思って居ります。以上

            26日 本日はここまで。

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誤った歴史認識や教育が多い今こそ、私共の経験と知識とを基に、正しく歴史を考え主張し、若い世代を主対象に判りやすく語りかけて、後世に伝えたいと思って居ります。