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2010年8月

2010年8月10日 (火)

「日韓併合百年」謝罪談話は断固反対!

「日韓併合百年」にあたり、総理大臣が謝罪談話を発表するという噂でしたが、本日発表されるというニュースがありました。

謝罪をする事実は何ひとつありません。談話発表は断固反対します。

昨日、首相官邸・民主党・国民新党はじめ、野党や与野党の主要議員あてに抗議文を発信しました。

抗議文詳細はこちら http://www3.coara.or.jp/~nippon_f/kawaraban220810.htm

2010年8月 6日 (金)

8月6日に思う

 今月も暑い中に、広島原爆の日が巡って来た。

 田舎に疎開して居た私のたった1人の伯母(亡母の姉)は、フィリピンに出征した長男の許婚の実家を8月5日に訪問して泊まっていた。6日の朝は又田舎に帰るつもりで仕度をしていた様である。広島市の中心、基町のあの川付近は材木問屋の並びでその内の一軒が訪問先であった。

 そこに思いもかけずに上空で原爆が破裂したのだ。放射線の白い閃光と共にすさまじい熱風と爆風が襲って来て、忽ちすべての建物はペシャンコになり、重い梁等の材木の下敷きとなってしまったのです。
 一緒に居た許婚とその妹も伯母と同じ状態だったが、幸い許婚の方は何とか逃げ出す事が出来たので、2人を助け出そうと力を尽くすが、女の身、重い材木は動かないし、助力してくれる人も居らず。その内に各所から火の手が上がり出し、だんだんこの家にも近づいてきた。伯母は「もう私達は駄目だ。貴女だけでも逃げて助かりなさい」と何度も言ったそうである。なす術もない許婚は火に追い立てられ、後を見乍ら南の方に他の難民と共に逃れたという。一夜明けて探しに戻って見たものは、返らぬ人となったお二人のむごい形であった。
これが暑い暑い夏の、更に熱い熱い事実である。何とひどく、何と悲しい事ではないか!

 私はその17日後の8月23日、そんな事とは思いもせず、任務で飛行中 たまたま通る事となって、この広島上空を我が100式司偵で数回超低空で旋回したのであった。
 10月初め、部隊と共に博多港に復員したが、生まれ故郷の朝鮮には戻る事が出来ず、やむなく本籍地の広島の伯母の家をあてにして広島に来たが、傷んではいるが がっしりした2階建の家には既に数家族の難民で占拠され居り、私は入る事は出来なかった。

 現在は、核廃絶の声がだんだん大きくなり、歴史は動いて今年の広島市の平和式典には初めて米国政府の代表としてルーズ駐日大使が出席されるとの事である。いろいろ論議はあるであろう。然し、たった一人の伯母を虐殺された私としては、非戦闘員を無差別攻撃兵器である原爆を使って、一挙に10万単位で虐殺するという国際法違反を行った米国を許す事は出来ない。
 本朝 念仏を唱え乍ら、いつの日か米国はこの報いを受けるに違いないと思ったのである。 以上
                           

2010年8月 5日 (木)

戦後65年目に思う

8月15日の終戦記念日にあたり、産経新聞では体験談等の特集があるそうです。
産経新聞九州総局長の広瀬さんより、私にも話を聞きたいとの依頼があり、先日当事務所に来られました。
生い立ちから陸軍士官学校入学の頃のこと、終戦当時のことなど2時間程話しをしました。その内容を広瀬総局長がまとめて下さり、下記の内容で掲載される事となりましたのでご報告します。
掲載日時はわかりませんが8月15日前後だと思いますので、是非ご覧になってください。

記事内容はこちら http://www3.coara.or.jp/~nippon_f/kawaraban220805.htm

プロフィール

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正しい歴史を考える会

誤った歴史認識や教育が多い今こそ、私共の経験と知識とを基に、正しく歴史を考え主張し、若い世代を主対象に判りやすく語りかけて、後世に伝えたいと思って居ります。