2015年10月16日 (金)

〔所感〕南京問題と売春婦について

〔所感〕 平成27年10月16日

◎南京問題について

支那の運動によって、今回
世界記憶遺産に「南京虐殺」が登録されたという事で驚いた。
確たる理論・証拠も無いのに、一方的でありすぎる。
それも30万人等は有り得ない数字だ。

日本はユネスコへの拠出金を凍結せよ!

これは実質世界一位の負担高で、その額54億円である。
この事は事実と認められ教科書に悪影響の可能性もあり。
政府、特に外務省は何をしていたのだろうと情無い。

◎売春婦について

日本では昭和32年迄、売春制度としての遊郭の存在は合法だったのだよ。
然し遊郭で遊ぶという事は相当高額だったので、簡単には利用はされなかった。
料理屋・カフェとは別のものである。
世界中に売春婦は居り、施設としても有った。現在でも存在している国は有る。
その利用は時間制度や泊まりもあったし、ピンからキリまであった様だ。

【 格言 SはPならず PはSならず 】(Sは芸者、Pは娼婦のこと)


更に南京問題・慰安婦について論じたい方はどうぞ。


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2014年9月 2日 (火)

今日は何の日 「9月2日」

大東亜戦争において、未だ決戦をしてなかった我が大日本帝国陸軍では、時の陸軍大臣阿南大将をはじめ、終戦など考えもせず本土決戦を準備中であった。然し御聖断が下された為従う他無く、大臣は割腹され、十数時間苦しまれて死去された。我々若い将校も呆然自失し、そのあとは種々あったが、結局死ななかった。
そして今日90歳も越えて尚も生きている。

実際の終戦は、戦闘中止の8月15日ではなく昭和20年の本日である。

時の米国トルーマン大統領の出身地はミズリー洲であったので、降伏調印式にはわざわざ戦艦「ミズリー号」を東京湾に呼び寄せ、その艦上で行われたのである。更に江戸末期に日本に開国を迫ったペルー提督の旗艦に掲揚されていた『星条旗』を保管先の博物館からわざわざ運ばせて、「ミズリー号」艦橋に掲げさせるという念の入れ様であった。

連合国側は米国(マッカーサー大将、ニミッツ海軍大将以下)・英国・フランス・オランダ・中華民国(中共では無い)・カナダ・ソビエト(今のロシヤに近い)・オーストラリア・ニュージーランドの各国代表が出席し、日本側からは日本政府全権大使・重光葵外務大臣(隻脚の)・大日本帝国大本営全権梅津参謀総長陸軍大将(丸腰である)以下が並んだ。

勿論日の丸はどこも見られないし、帝国陸軍正規服装から軍刀を外すという等々正に屈辱そのものであったので、列席の日本人の胸中いかばかりならん。
調印後、マッカーサー大将は演説を行ったが得意の絶頂であったろう。

戦後69年となる今日改めて当時を思い起こし、我々日本人は決して未来永劫にこの日と、調印式のこの光景とを忘れてはならないのだ。


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 昭和20年9月2日ミズーリ艦上で降服文書の調印式が行われた。写真は調印する重光日本政府代表、前方後向はマッカーサー連合国最高司令官。

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 東京湾停泊中の戦艦ミズーリ号

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2014年8月 7日 (木)

8月6日に念ず

私の本籍地は広島です。朝鮮育ちですから昔は広島には陸士に入校するまでは全く行った事がありません。

市内の吉島という所に伯母の大きな2階建の家があり、陸士時代に一度訪ねた事があった位でした。昭和19年7月1日に(歩兵)少尉に任官して会津若松の155聯隊付となり、聯隊旗手を勤めていたが、航空兵に志願して転科し、偵察将校としての再教育を受けた上で司令部偵察機(2人乗り)の機長兼偵察となり支那派遣軍の第5航空軍82戦隊へ赴任した。満洲の奉天飛行場に駐在していた8月6日に、広島が空襲を受け、相当な被害があり、「敵米軍は原子爆弾と称す」との情報が入ってきた。「我が方の損害は軽微なり」というその頃の報道と違い、相当な被害というからには、これは只事ではないと感じたのを覚えている。そして終戦となった。

朝鮮の京城(今はソウルという)の金浦飛行場に移動していた私に『済州島へ行き、現地砦部隊の参謀長を乗せ東京へ届けよ』との命令が下された。 8月22日午後夕方近く、金浦空港から済州島に飛んだ。美しい海に夕日輝く内で、済州島に着陸。一泊して、翌朝参謀長を乗せて東京に向かった。途中参謀長の要望により広島を視察する事とした。その時の光景は一生忘れない。崩れた建物と一面の焼野原と化した広島の市街であった。人影は無かった。

伯母の生死は? 田舎に疎開していた様だから大丈夫だろうと思っていたが、後で聞くと息子(長男)の許嫁の実家(広島市の爆心地基町近くの材木問屋)に泊まりがけで出広して居り、6日朝には田舎に戻る予定だったが8時の列車に乗り遅れてまだその実家に居た。そこに8時15分『ピカドン』が落ちたのだ。

全く恐ろしい運命であった。材木屋(川沿い)だから骨組みも大きく、その家が一瞬で崩れ、梁や屋根の下敷きとなった由である。許嫁は何とか抜け出せたが、伯母と許嫁の妹とは動けなかった。助ける人も無く、その内に近くで火事が起こり、その火がどんどん近づいて来たそうだ。伯母は「貴女は逃げなさい」と苦しい息の下で言った由である。どうしようもなく危険が迫り許嫁は逃げたという。残された伯母と妹とは逃げられず、生きたまま焼け殺されたのだ。苦しかったろう! 辛かったろう!

あれから69年。今日は首相も参加して慰霊祭が朝から行われてテレビで放送された。思い万感! 8時15分には心を込めて拝んだ。

「過ちは繰返しませぬから」と今日テレビでは言っている。だが、この意味は何だ? 広島大の雑賀忠義教授が作った言葉だというが。

大東亜戦争が間違いだったというのか? 一有色人種だから落したのか? 謝るのは投下した米国であり、命令した大統領トルーマンだろう! この様な不本意な文字を刻んでいる碑は撤去すべきだ。すでにその運動は起きているのだが、本日のテレビでは出てこなかった。

然し「許すべからず!」 「米国の罪だ!」 米国はこれで百万人の米人が死ななくて良かったと言っているらしい。何てことだ。 原爆も小型になっている。万一、テロでワシントンで原爆・水爆が破裂しても、そんな事言って居れるのか?

 【今日は悲しい。】

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2014年7月 7日 (月)

大東亜戦争全国戦没者慰霊祭参加報告と7月7日で想うこと

今日は昭和12年に盧溝橋事件が起こった日で、小生は大邱公立中学校1年生であった。スターリン・中国共産党の策略にはめられた日本と蒋介石政権とはお互いが不信に陥り、支那事変に拡大し、遂には大東亜戦争へとなった肝に銘ずべき日である。
大邱中学校の隣が歩兵第80聯隊(当時第20師団に属し、国内では最後の番号の歩兵聯隊であった)なので、忽ち出征が始まり、日々戦時色が濃くなった。
その影響もあって、中学5年を待たず、4年から陸士を受験して合格したので入校・卒業して軍人となった訳でもあります。

本年も7月5日には靖国神社で定例の大東亜戦争全国戦没者慰霊祭(平成26年度)式典が行われた。私も福岡県偕行会会長及び陸士57期生会員として出席しました。
羽田空港から靖国神社へと直行したので11時の受付時間前に到着し、有志の方々と面談し乍ら12時の開会を待った。
我が陸士57期生は約2,300人 も居たが、地上兵科と航空科とに分かれ、更に各兵種に分かれるのだが、部隊の数が多いので全部の部隊には行き渡らなかったが、激戦地の部隊へは重点的に配置した為、当然フィリピン・ビルマ等々では多数の戦死者が出たし、航空では戦闘機隊では消耗が多く、地上兵科から450名程が航空科へ転じて戦ったが、特攻隊にも主として隊長として約100名が散った。合計で3分の1の約800人の戦死者を出した期であるので思い入れは深い。
参集殿大広間での式典の後、更に奥の間に昇殿参拝をし、各集団の代表と共に玉串奉奠を行い、いつもそうであるのだが、正面の大鏡の前では誠に身が引き締まり、心から御冥福をお祈りした次第です。
この会も実戦経験者は数少なくなってきました。(陸士卒では我々陸軍中尉の57期が最終で、以後の期は58期は少尉に任官早々で、59期から61期生はまだ在学中でした。)

大東亜戦争(太平洋戦争では無い)では陸軍は決戦を出来ないままに終戦となりました。
満洲でも無法国家ソ連が協定を反古にして勝手に攻め入り、我軍が計画していた決戦の前に大命が下って終戦となった。大命拳々服膺したのです。それが仇となって在満邦人の保護も出来ず、約60万の軍人は無謀なソ連軍にシベリアの奥地に連れ去られた上、虐待と重労働を課せられて、1割の方々は望境の念にかられつつ亡くなったのです。
アメリカは非人道的な原爆を広島・長崎に投じ、数十万人を虐殺したのです。
昔から武力を持った白人に侵略されて、その圧政に呻吟していたアジアの人々や有色人種は、日露戦争以来の日本の立ち上がった姿を見て目を覚まして立上り、すべて独立して白人達と対等になりました。
毎日の世界の報道を見て下さい。よく判るでしょう。    以上


2014年6月26日 (木)

「慰安婦」とは?

多忙でブログを書き損なって居りすみません。 なるべく多く書く様にしたいと思っています。

手始めに 「慰安婦」の事について、帝国陸軍中尉として書きましょう

「慰安婦」とは何ぞや?

当時「SはPならず」という言葉をよく耳にした。Sとは「芸者」でありPとは「娼婦」の事である。

陸軍少尉に任官したのは、陸軍士官学校を19年4月に卒業した年の7月1日で満19歳であった。誕生日の7月19日までは19歳の若僧が聯隊旗手としてバリバリで通ったのでした。見た目には27~8歳に見えたと言われて居ました。

歩兵の聯隊旗手は神聖な軍旗を捧持する身ですから、宴席には出ても女性とは話も殆どする事は無く、触れる事など有りません。専ら武術に打ち込み、戦術や戦例を勉強し、新兵さんを教育するという毎日でした。

その内、志願して航空兵に転じたのですが、再教育を受けての新任地は支那派遣軍の航空軍で、主として満洲に駐留しました。偵察が主任務で、解放された気分で良く飲みました。

内地ではその頃は合法的に遊廓というのが有り、満洲(奉天に居た)にも同じ様な遊廓の様な所があった。我々若い同期生は結構高級な料亭で若い芸妓さんと他愛なく遊んだものでした。(SはPならず) 我々航空部隊は割と大きな街に居たので、所謂戦地(出撃すれば戦死もするのだが)の慰安所を見た事が無いのです。

慰安婦というから慰安所があったのかと思うが、他の兵種の者に聞いてもよく判らないのが実情です。

慰霊の為ニューギニアから南方諸島・フィリピン・ビルマ・タイ・インパール・ノモンハン・バイカル湖・チタ・ハバロスク・ウラジオストック・満洲・支那(南方地方も)等々を廻りましたが、慰安所の話は聞く事は殆ど有りませんでした。

只、雲南の拉孟・騰越・龍陵等の第56師団が雲南遠征軍の大軍の攻撃を受け激闘の末、 玉砕が相次いだが、現地には支那軍の戦勝記念館が有り、そこには捕まった朝鮮人慰安婦として数名の写真があった。話では日本人女性は銃をとり皆戦死されたとの事である。この件は記憶に残っているが、この他には無い。日本陸軍は衛生上の心配から軍医さん達が予防検査はしていたらしい。

陸軍将校であった私さえ、その実態を殆ど知らないので教えて欲しいと思う。 「従軍」とゆう変な名前は誰が付けたのだろうか? 全くけしからん話です。

任務を持っている帝国軍隊が女を強制連行する等する筈がないではないか?

娼婦はその家族によって仲介人に売られたのであり、その女性本人は知らないから強制されたと思っているのでは無いのか?

私は朝鮮で生まれ16歳まで育ったのだか、勿論そんな話は知らないし、残っていた家族や知人達もそんな事は聞いた事も見た事も無いと言っている。

70年以上の年を経て当時の事情を知る年代がもう少なくなり、その内絶えてしまうから、早く実情を調べて欲しいと思って居ります。以上

            26日 本日はここまで。

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正しい歴史を考える会

誤った歴史認識や教育が多い今こそ、私共の経験と知識とを基に、正しく歴史を考え主張し、若い世代を主対象に判りやすく語りかけて、後世に伝えたいと思って居ります。